1、世界遺産とは。
世界遺産(せかいいさん)とは、1972年のユネスコ総会で採択された
「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて、
世界遺産リストに登録された遺跡や景観そして自然など、
人類が共有すべき普遍的な価値をもつものを指し、以下の4種類がある。
・文化遺産
すぐれた普遍的価値をもつ建築物や遺跡など。
・自然遺産
すぐれた価値をもつ地形や生物、景観などをもつ地域。
・複合遺産
文化と自然の両方を兼ね備えるもの。
・危機にさらされている世界遺産(危機遺産)
後世に残すことが難しくなっているもの。
2、日本の世界遺産。
日本には以下の14個の世界遺産がある。
1,法隆寺地域の仏教建造物 - (1993年、文化遺産)
2,姫路城 - (1993年、文化遺産)
3,屋久島 - (1993年、自然遺産)
4,白神山地 - (1993年、自然遺産)
5,古都京都の文化財 - (1994年、文化遺産)
6,白川郷・五箇山の合掌造り集落 - (1995年、文化遺産)
7,原爆ドーム - (1996年、文化遺産)
8,厳島神社 - (1996年、文化遺産)
9,古都奈良の文化財 - (1998年、文化遺産)
10,日光の社寺 - (1999年、文化遺産)
11,琉球王国のグスク及び関連遺産群 - (2000年、文化遺産)
12,紀伊山地の霊場と参詣道 - (2004年、文化遺産)
13,知床 - (2005年、自然遺産)
14,石見銀山遺跡とその文化的景観 - (2007年、文化遺産)
3、石見銀山の世界遺産登録についての経緯。
日本政府は「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、
UNESCO世界遺産委員会に推薦した。
2007年(平成19年)5月、各国から推薦された世界遺産登録候補を審査する
UNESCOの諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS)が、
遺跡の普遍的価値の証明が不十分であることを理由に
「石見銀山は登録延期が適当」と勧告したが、6月28日、世界遺産委員会の審議により、
世界遺産(文化遺産)としての登録が満場一致で正式に決定された。
日本の世界遺産登録としては14件目であり、文化遺産としては11件目、
産業遺跡としては日本国内初の登録となる。
4、石見銀山の概要。
石見銀山は戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山。
鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、
同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。
日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国指定の史跡に登録され、
2007年(平成19年)に、ユネスコの世界遺産への登録が決定された。
石見銀山を本格的に開発したのは博多の商人、神谷寿貞である。
海上から山が光るのを見た神谷は1526年、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。
また、神谷寿貞は中国渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。
この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、
日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。
5、石見銀山の商業への影響。
石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。
このため、精錬加工された銀は基本通貨として広く国内で流通したばかりでなく、
16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガルや17世紀初めに来航した
オランダ東インド会社、さらに中国密貿易商人らとの活発な交易をも支えた。
当時の銀産出量は世界全体の三分の一に達し、
スペインのペルー副王領ポトシ(現ボリビア、世界遺産)のセロ・リコと並ぶ
銀産出地として西欧・中国でも有名になった。
その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されている。
航海術の発展に伴って西欧諸国の王侯、特にスペイン国王はイスラム圏から
入手した地図を大量に持っており、更には独自にかなりの地図を作成した。
この地図を持った船団が、インド・マレー半島・中国・日本にも貿易の手を伸ばし、
石見銀山で産出される銀を求めてやってきた。
銀山を手中にした武将(大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏)は積極的にこれらの海外諸国と
貿易を行い、その輸入品の中に当時貴重であった『火縄銃』が含まれていた可能性も
指摘されている。
5、石見銀山の商業への影響。
石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。
このため、精錬加工された銀は基本通貨として広く国内で流通したばかりでなく、
16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガルや17世紀初めに来航した
オランダ東インド会社、さらに中国密貿易商人らとの活発な交易をも支えた。
当時の銀産出量は世界全体の三分の一に達し、
スペインのペルー副王領ポトシ(現ボリビア、世界遺産)のセロ・リコと並ぶ
銀産出地として西欧・中国でも有名になった。
その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されている。
航海術の発展に伴って西欧諸国の王侯、特にスペイン国王はイスラム圏から
入手した地図を大量に持っており、更には独自にかなりの地図を作成した。
この地図を持った船団が、インド・マレー半島・中国・日本にも貿易の手を伸ばし、
石見銀山で産出される銀を求めてやってきた。
